移り変わる時代

高校時代の上映会

今日も映画のお話しからです。

高校生時代、体育館で上映会が開催されたことがありました。かかっていた映画は、山田洋次監督の『幸せの黄色いハンカチ』でした。

映画の制作年である1977年の頃といえば、高度経済成長も山を越え、日本全土を何となく包んでいた連帯意識は消え去った頃です。日本のポストモダンといえる時代のはじまりだったと思います。

監督のノスタルジーでしょうか、「幸せの黄色いハンカチ」の時代背景は、上映された1977年より少し昔の昭和感あふれる映画だったように思います。

それから見直していませんので映画の内容についてはあまり詳しく覚えていません。覚えているのは、ひたすら高倉健さんを待っていた奥さんがとてもかわいそうだったことと、彼が劇中で絞り出すようにつぶやいた言葉でした。

隠された他人の人生

劇中に想定されていた昭和の色濃い時代の頃は、もっと他人の人生があからさまだったように思います。

例えば、飲んだくれのどこかのオヤジの奥さんが逃げ出して行方知らずだったり。商店の夫婦が、他人の目もはばからずに大声でけんかしていたり。学校をさぼった生徒が河原で野球をしていたり。

たとえ田舎でも、生活状況を切り取ったような瞬間が、あちこち漏れ出していました。人生何とかなるといった、まだ幾分の余裕が感じられた時代であったのかもしれません。

また、世の中には、社会が敷いたレールから外れた人たちが逃げ込めそうな場所が、あちこちに存在していました。生き方に迷ってしまったら、誰でも逃げ込んで良い場所が暗黙の裡に用意されていたのです。

社会全体に何とか人生廻っていくような雰囲気があったし、自分の人生を少し見直してみるきっかけになりそうな材料もあふれていました。

現代では人の人生は極端に隠され、隙間も閉じられ細かいルールだけが増えていきました。公園のベンチですら、ゆっくり休めないような息苦しさを感じてしまう世の中です。一方で、巷には人の欲望を煽る情報が溢れかえっています。

見濁の時代

さて、話しを戻すと劇中高倉健さんがつぶやいた言葉は、

何でおれはこんなやくざな性格なんやろか。一生変わらんのやろか!

だったと思います。

今にして思い返すと昭和の頃は、生まれ持った性格の中に何らかのきっかけで、自分の業を見出して、それをどうしてよいか途方に暮れている人々が身近にもいました。

しかし、業に逆らえずに暴走したり、なかにはそれを解消しようと真摯に修行に挑む人もみられました。現代は、業でさえも価値観というベールに包んでしまって、うやむやにしてしまいます。

現代は、五濁のうちの自分を見誤ってしまう見濁という時代

「在りのままの自分で良い」とは、アメリカから入って来た代表的な価値判断です。自分の業まで、そのままにしておいて良いという意味で使う言葉では決してありません。

時代の変化の中で

昭和という時代は、良くも悪くも復興とともに歩んできた荒削りの時代でした。

良く言えばおっぴろげな社会風潮が、行き過ぎた感もありましたが、人々の安心感にもつながっているようでした。現代は、何でも隠そうとする時代です。

現代は自分を見直すきっかけとなる材料が見つけ難い時代

振り返ってはじめて分かることですが、人間が生きていくに当たって何が大切なのかを見極めて、違った時代の変化の仕方もあったのではないかと思います。しかし、時間は元に戻らないし、人生は思っている以上にとても短いのです。

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