はじめに
人は死んだらどうなるんだろう?
と少しでも興味のある方に、これからのお話しが参考になればと思います。
前回に引き続きます。
戒名に込められた意味として例を挙げてみました。他人では、個人情報保護の観点というのもありますから、特殊で、かつ手前味噌で恐縮なのですが、わたしの法名【泰清】から説明していきたいと思います。
わたしの戒名
法名について
僧侶というのは出家とともに仏様より法名をいただきます。住職から頂く寺院がほとんどだとは思いますが、わたしの寺院の場合、住職を通して仏様より頂戴いたします。
僧侶にとって出家得度というのは、一般の人の葬式に当たります。そこで、出家得度の際には、白装束を身にまといます。
これは、清浄にして仏門に入るということの他に、葬式における死に装束をも意味しているわけです。出家とは、単に家を出るだけでなく、生きながらにして死後の修行を始めているのです。本来の僧侶はですねw
このようにわたしの法名【泰清】は一般の人の戒名をも表しています。
命名までの経緯
通常、出家者は、自分の法名を神仏に伺うのですが、当時のわたしは神仏のお知らせを受ける器がまだ出来ておりませんでしたので、住職にお願いしてお尋ねして頂きました。そこで頂いた名が泰清日扇でした。
「泰」文字は、宗祖より代々受け継いでいるひと文字で、宗祖から引き継がれた弟子を表しています。【日】は日号といいます。従いまして、合計4文字の法名の中で神仏より頂いた文字は【清】と【扇】になります。
この法名は、次のお経の一文から、神仏より示されました。
微渧先堕 以淹欲塵 開涅槃門 扇下解脱風 除世悩熱 致法清涼
微渧先ず堕ちて 以て欲塵を淹し 涅槃の門を開き
~無量義経 徳行品第一
解脱の風を扇いで 世の悩熱を除き 法の清涼を致す
「露のしずくが塵にしたたるように、説法の雨によっていらだつ気分や欲望の熱を抑え、清浄安穏な精神世界へと導きなさい。」
という意味です。
大乗仏教では、僧侶たるもの、どんな通称-悪人の中にも、仏の種を感じて慈悲をかけ、正道に導くようになることが肝要という考え方があります。
しかし、わたしの場合、世間に渦巻く不条理な出来事や、自分の利益のためには犠牲をいとわないような人々がどうしても許せなくて、気分をかき乱され気持ちを濁す、こころの癖を持っています。
出家して10年が経過して今でこそ、通称-悪人も現世の一部と思えるようにはなってきましたが、それでも、通称-悪人の中に善を見出すなど、積極的に容認できるまでには至っていません。
この気持ちを濁すことがわたしの業なのです。わたしの法名は、気持ちを清浄にし葛藤から起こる気持ちの熱を扇いで冷ましなさいという戒めなのです。
この業の解消が、わたしのこの世の使命のひとつです。僧侶として人に尽くしながら、魂の向上につながる努力をしていかなくてはなりません。
戒名の目的
わたしの法名の例にのように、本来戒名には「いましめる」という文字とともに意味もまた込められています。
亡き人のためを思うなら、生前好きだった言葉や美辞麗句など、いつまでも今世を引きずってしまうような名を並べてしまっては、とても適切だとは思えません。
むしろ、死後の世界で歩む道筋が示せるような名を付けられたら良いでしょうね。そんな名には、亡き人へあの世でも幸せになってほしいという願いが、自然と込められているからです。
おわりに
お盆の折、良い機会ですから自分自身の戒名についても考えてみてはいかがでしょう。戒名について考えるということは自分の生き様を振り返ってみることも意味します。
自分のこころをもう一度見つめ直し、自分には何が足りてないのか、そんな反省を踏まえながら、新たな自分への目標を掲げる意味においても大変有意義なことだと思います。
戒名を考えることは、自分のこれまでの生き方を振り返ることに他ならない