はじめに
煩悩については、以前記事にしています。

煩悩は人が生きていく上で重要なテーマです。お釈迦さまの教えでは、人の目指す解脱は「煩悩の滅徐」が到達点であり出発点となっています。
今回、再び煩悩を取り上げたのは、一般的に煩悩と「欲望」とを混同されていて、煩悩について改めて書き記しておきたいと思ったためです。
なお、この記事における煩悩の考え方は、出家後わたしが自身に落とし込んできた解釈となります。
欲望とは
人が欲望を満たそうと思うのは不足を感じるためです。不足を感じる要素には次の5つあると言われています。
- 「生理的欲求」
- 「安全への欲求」
————————— - 「社会的欲求」
- 「自我欲求」
- 「自己実現欲求」
数字が挙がるほど高次元となります。数字の増加は人間の本能から知性の欲望を示しています。図中の点線が本能と知性のおおよその境界となります。
例えば一番低次元な欲望である「生理的な欲求」からみてみましょう。
人は食べなければ生きていけません。性もまた必要な人の営みです。一方で、特に資本主義社会では欲望の先を求めるし求められます。すべての人々が最低限の「食」や限定された「性」で生きていては窮屈だし、持続的な社会が望めないからです。
そこで、生理的な欲望に対して副次的な価値を付けていきます。ここでいう「副次的」というのは、食欲は生きるために必要な栄養を摂取するための「食」、子をつくるための「性」からは発展的であるという意味です。
「食」ならば新たな触感や味覚を求めたり、「性」のバリエーションに至っては目を覆うほどです。低次元な欲求になればなるほど刺激を受け入れやすいため、人は満足感を得やすく経済的な成果が高くなります。

社会的な欲求より、上位の知性的な欲望も同様、情報化社会に伴って、自発的あるいは経済的な動機から発達してきました。生理的な欲求がある程度満たされてくると、社会的な自分の立ち位置だったり、生き甲斐あるいは生きていく意味について求めるようになってきます。
生理的な欲望を超えて新たな欲望を作り出し、資本主義社会の進展とともに大きくなっていったのです。

欲望を刺激していく社会は、「人生は修行」からすれば相反するものです。この点で、現代はお釈迦さまが予見していた五濁悪世と言えるでしょう。
煩悩の本質
「食」や「性」の生理的な欲望そのものに煩悩があるわけではありません。煩悩とは、前節で例に挙げた副次的な拡がり-例えば余計な?食欲・性欲に取り付いてきます。煩悩というのは、意識的に、あるいは無意識的に、こころと事象をくっつける媒体のような役割を持っています。
煩悩は前節で述べたように、時代が進むにつれて生理的な欲望から、主体を知性的な欲望に移しながら広い範囲に及ぶようになりました。食って寝るだけの生活で済んだ太古の昔に比べれば雲泥の差です。
文筆家であれば論理的な言葉を駆使して物事を書き表すことが出来ます。そのとき、煩悩はその文章に付着します。政治家、資本家は言葉を弄して人を連れていきます。そのとき、煩悩はその言葉の発露に付着していきます。
わたしもご多分に漏れず論理的な思考が好きです。下手な横好きから性懲りもなく文筆家と似たようなことをいたします。わたしの場合、生理的な欲求は卒業していますので、煩悩が付くとすればこの点なのかもしれません。
わたしは記事を書いて公開はしていますが、ただの「覚書」に過ぎません。「読んだ人が気持ちの切り替えになれば」程度の記事の内容です。承認欲求等その先に繋がる事柄には興味がありません。その点、たとえ煩悩があったとしても、簡単に手放せると思っています。
話がだいぶ逸れてしまいました。
このように煩悩は、嗜好、思考傾向、趣味等、人の活動全般につきます。以下の記事「煩悩について」で触れたように、煩悩とこころを繋ぐ媒体として一種のクリップに例えていました。たくさんの事象にクリップが繋がれています。簡単に外せるかどうかは煩悩の強さです。

ただ、クリップが欲望に取り付く際に、様々な形に変化していると言い換えた方が分かり易いと思うようになりました。クリップは容易に外せますが、例えば「安全ピン」に変われば、外すためにはクリップよりひと手間かかるだろうし、「杭」や「錠前」ほどの強い留め具となると外すことが困難になっていきます。
煩悩というには手を変え品を変え変貌し、あらゆる自身に関わる事象に取り付き、個人の知力・能力に関わらず、生物の行動・行為全般に潜んでいます。そう考えていくと、何か似たような性質を持っているモノを思い出しました。
そう、ウィルスです。
煩悩とは、目には見えないし、本人の知らない間に取り付きます。大して気にならなかったり、生活に影響するまで強くなったり、煩悩先の欲望等で変異していきます。
欲望はまるでウィルスのような存在なのです。
まとめ
生理的な欲望は年を取るごとに衰えていくため、自分の食欲、性欲の能力を超えて執着することがなければ、小さくなって気にならなくなる方向にあります。
ところが、知性的な欲望に取り付いている煩悩は年齢に関係ありません。むしろ老化が助長していくのです。
煩悩は甘美で誘惑的でやっかいものです。生理的な欲望が無くなって来たからと言って、煩悩が消滅していると判断するのはやや早計です。また、煩悩と欲望とはイコールではなく、確かに欲望周りが好物ですがただの嗜好傾向にも感染していきます。
出家が信仰の先ではなく独立してあった昔、煩悩に惑わされないように誘惑されないように、一切の社会活動から隔絶した環境に身を置いたのも当然でした。
煩悩は付かず離れず自分がいつでも離すことができれば、既に「煩悩を滅徐した」状況と言えます。「煩悩を滅徐した」というのは個人だけがわかる体験です。「ああ、煩悩が無くなった」という感覚が体験として実感できます。
静かに自分の行動を瞑想でトレースし、自分の煩悩はどこに感染しているのかじっくり調べてみましょう。その上で、欲望を含めてたしなむ余裕があれば良いですね。
煩悩というウィルスは、自分のわからない意外なところに巣くっていて姿を変えて生き続けている