四聖とは、多くの大乗仏教において修行の段階を示すものです。
そして、2023年以降、わたし自身の「四聖」に対する考え方に、少し変化が生まれました。
四聖の中でも、仏は特別な存在です。
お釈迦さまは、過去七仏のうちの七仏目にあたり、
次に出現されるのは、文明そのものが変わった後の弥勒菩薩だと伝えられています。
したがって、仏とは人が到達できる境涯ではないのです。
人は、四聖の中で菩薩の利他心を持ちながら、
最終的には**縁覚(えんがく)**を目指して歩む存在。
──これが、わたしが身をもって悟った事実です。
はじめに

先だっての記事の住職の法話の中で、四聖について触れていました。今回はこの四聖について簡潔に補足しておきます。
四聖とは
四聖とは、4人の聖人を意味していますが、聖人の解釈によって世界に様々な組み合わせが存在します。
わたしの出家した寺院では、四聖を特定の人物ではなくて、こころの境涯である声聞・縁覚・菩薩・仏としています。それぞれを説明すると、
◆ 仏は、言わずと知れた境涯の最高位
一般の人とはルート違い。ここに至ることはありません。
◆ 声聞は、文字通り聞き法によって修行を積む段階
法話を聞くことによって、
ああ、そうだな自分にも当てはまるな
などと自分自身を振り返りながら反省し、生活に生かしていく段階の人々です。
◆ 縁覚は禅定や経文の習得などで、自分の修行を完結していくこと
菩薩と同じようですが、菩薩から利他行(他者を利する修行)を省いた修行となっています。
◆ 菩薩とは、縁覚としての自分の修行と並行して、他者を利する行もしていくこと
ところで、文殊菩薩、薬王菩薩、月光菩薩など経文に多く登場する菩薩は、目に見えない世界に実際に存在しますが、どちらかと言えば、その名は境涯であって、精神修行の先にある目標を表しています。決して何らかの身分を指しているわけではありません。
ちなみに、法華経では、声聞・縁覚・菩薩を乗り物に譬えて、これを三乗の法といいますが、最終的に大乗仏教では仏を目指す一乗の法としています。
おわりに
あまり長いあいだ、修羅や餓鬼など――人を含めた下位層の世界でウロウロしていないで、
そろそろ四聖の世界へと足を踏み入れていきましょう。
四聖に生きることで、自分の霊格は少しずつ高まっていきます。
そうなると、いつの間にか善きサマリヤ人があなたのまわりに集まりはじめます。
(ご利益をいただく、ということを格好つけて言っているだけですがw)
読者の皆さんも、この記事をここまで読んでくださっている時点で、
すでにその段階へと歩み始めているのかもしれません。








